東日本大震災と原発事故の真実

2011年03月11日(金曜日)

東日本大震災が起き、その後、福島第一原発の事故が起きた。

私の体験を記録しておきます。長くなりますが...これが真実。

最後まで、お読み下さい。

東日本大震災前

2010年頃から、私は二日酔いのような酷い片頭痛と吐き気で、仕事を休むことが増えていた。


東日本大震災が起きる少し前のある日、私は福島県いわき市で、仕事帰りに『アニメに出てくるような、非現実的過ぎる巨大な丸い月』を見た。

そんな月は初めて見たので二度見し、驚いた。不気味で嫌な予感がし、恐怖すら感じた。

月とぶつかり、地球が滅亡するのではないかと思ったくらいだ。

後で調べてみたところ、2011年02月18日(金曜日)に『満月』だった。なので、その日の月かと思われる。

月が地上に近いと目の錯覚で、そのように巨大な丸い月に見えることがあるらしい。


02月22日(火曜日)にはニュージーランドで『カンタベリー地震』が起きた。日本人の留学生28人が亡くなった。


03月10日(木曜日)の夜。

日本の東北でも変な地震が増えていたし、数日前、茨城沖に沢山クジラがあがったニュースがあったので、我が家では夫婦で...こう話していた。

「(大地震)デカイのくるかもね」


...そしたら次の日...


03月11日(金曜日)午後02時46分。本当に(大地震)デカイのがきてしまった。震度6強。半端ない横揺れで立っていられなかった。

東日本大震災そして原発事故

東日本大震災が起きた時、私は海から近くはないが、遠くもない、福島県いわき市の某工場で勤務中だった。

昔から地震が起きたら「机の下で身を守る」と教えられてきたのに、実際に大地震が起きたら、誰もがそうはできていなかった。

私は、頭だけは机の下で...机の幅が狭かったせいもあり...尻隠さず状態だった。

大きな機械、小さな機械があるので、機械が倒れないように...身を守るよりも何故か機械を守ってしまっていた人達もいた。

某工場の建物は鉄筋2階建てなので、木造よりは頑丈だが、壁や天井には電線が張り巡らされていた。壁や天井が落ちてきた場合、最悪...感電...火事の危険性もある。

私は隙を見て、すぐ外へ避難した方がいいと思った。しかし肝心の上司が...なかなか...避難指示を出してくれなかった。

なので、自己判断で近くにいた人達と勝手に外に避難した。それに続くかのように他の人達も外に避難した。後から聞いた話、やはり天井が落ちて頭にあたった人がいたらしい。


外では川や海にいる鳥達が、あっちへウロウロこっちへウロウロ。まるで人間に危険を知らせるかのように、空を飛び回っていた。

急激に寒くなり、皆で身を寄せ合っていた。

霙か、雪か...降ってきて更に寒くなった。スマホのワンセグでテレビを見ると、大津波警報が出されていた。

...しかし...

私は『原発』が気になって仕方なかった。


しばらくして上司から帰宅するよう言われたけれど、私は「どうせ混んでるし」と、駐車場の自分の車の中で、のんきにカーナビのワンセグで大津波警報などを見ていた。


様子をみつつ「なるべく山の方から帰ろう」と車を走らせた。やはり混んでいた。

その間にも何度も地震で揺れた。帰りの道は津波の心配はなくとも、トンネルや山が崩れる可能性もあるので、特にトンネル内で止まらないように気を付けて運転した。


無事に自宅に着くと、我が家の外にあるプロパンが倒れそうになっていて、隣のお爺さんがヒモで結んでくれていた。自由に足が動けない状態なのに杖を片手に...凄く有難かった。

(我が家は屋根が崩れ、室内の壁には大きな横ヒビが入ったりして『半壊状態』)

そんな外の様子も知らず、先に帰宅していた主人(汗)とりあえず顔を見てホッとした。電気だけは使えたのでテレビを見て驚いた。宮城県の映像だったと思うが、真っ黒な波が家を壊して流していた。


人間は?福島県は?茨城県は?

その時、福島県でも『地震+津波+火事3つの災難の三重苦状態』だった。


夜には茨城県に暮らす実家の両親達とも何とか連絡がつき、福島県に暮らす親戚全員の無事も確認できた。

自宅は海から距離はあるけれど、近くに小さい川がある。何度も地震があり不安で...その日は眠れなかった。

...それに...

ずっと原発が心配でネットで調べまくっていた。すると福島第一原発で2人、第二で1人の死亡者が出たという、デマか本当かは分からない情報を得ることはできた。

03月12日(土曜日)東日本大震災の翌日~

朝、外に出ると何か空気が違って嫌な感じがした。喉にもピリピリ違和感があった。

とりあえず水が使えないので、公園に水をもらいに出かけたが、きっと原発で何かがあった。

亡くなった3人が原発事故や放射線でだとしても、絶対にそう言わないだろう。福島県のテレビでは、行方不明者の名前をあげているだけで、原発の情報が全くない。

あれだけの大地震と大津波で、原発に関する情報が殆どないのも変!「絶対、漏れてる」そう勘が働き...すぐ車に貴重品や必要な物を詰め込み、福島県から『南』へ避難した。


...なぜ南へ避難したか...


私は幼い頃から放射線に関する同じ夢を何度も見ていた。『実家のベランダで白い布をかぶり放射線から身を守ってる夢』だ。その夢を思い出したのです。

その夢で聞こえた...男性の声も...それが『南へ逃げろ』でした。

主人に夢の内容を伝えたところ「大丈夫だよ」と笑われたが、何とか説得し、一か八かで夢の通り南へ...とにかく福島県を出て茨城県の実家へ向かった。隣の家の人には「南へ行きます...原発が」としか言えなかった。

私の第六感や不思議なことを信じてくれる人はいないと知っていたし、私なりの精一杯の一言だった...本当は「南へ逃げて」と言いたかった。


茨城県の実家に着くと、ガスだけ使える状態で他は使えなかった。私は両親達に夢の内容、そして福島県の原発がヤバそうだと伝えた。

勿論、両親達にも「大丈夫だよ」と笑われた。

しかし次の日の13日(日曜日)に、いわきの母方祖母が、実家に連れてこられた。その後すぐ他のいわきの母方の親戚3人も実家に避難してきた。

やはり原発が危険な状態で、原発関係者から聞いたらしく、避難してきたのです。

なぜか原発近くの住民は、すぐ遠くに避難させられたそうです。なのに近くのいわき市民には、何も知らされなかった。

でも放射線に詳しい医師や看護師、お金持ちは遠くへ逃げていたそうです。飛行機に乗り、海外に避難した人達もいたとのこと。


医療関係者が逃げるということは、本当に危険な状態だという証拠。逃げずに患者を診ていた医療関係者もいたでしょうけど...相当にヤバイ状況ということには違いない。


私のいわきの親戚の中にも、海外に避難した人達がいた。「東京よりも遠くに逃げた方がいい」と実家に伝えに来てくれて、東京より遠くへ避難した人達もいました。

...しかし...

実家にいる私達は避難することができませんでした。遠くまで避難するガソリンが無い。ガソリンスタンドも開いてなかった。


電気がつき...やっとテレビが見られるようになった。すると関東のテレビでは原発についての内容ばかり放送されていた。それを見て、私を笑っていた主人や両親達の顔が真っ青になっていった。

その時には既に遅し...とうとう爆発した。皆でテレビを見ながら、死をも覚悟した。

母は「皆で死ねるならまだいいね」と言った。

父は、もしものことを考え、生きた証としてビデオ撮影までしていた。


私は主人を連れて、早く福島県から出て避難できたものの、とことん何の役にも立てなかった。ご近所さんや友達にハッキリ伝えることもできなかった。身内さえもっと遠くへ避難させることができなかった。無力感で一杯だった。

しかし私は福島県に永住を決め、災害に遭って、避難しなければいけなくなったが、それはそれで正解だったと思った。私達夫婦がいなければ、母方祖母は喘息発作で息ができなくなり、震災関連死していた可能性が高かったからだ。

父から「何処に逃げればいい?お前になら判るだろう」と聞かれた。

爆発してから聞かれても遅い。

私には逃げるべき方位は南とは判っても、場所までは判らなかった。テレビでは風向きから逃げる方位は西がいいといっていた。だから私は間をとって、こう答えた。

私「遠い南西」

後で知ったことだが、元福島第一原発関係者によると「昔から、原発で何かあったら『南へ逃げろ』と言われていた」そうな。つまり福島第一原発関係者は、昔から風向きの関係で、もし原発で何かあった場合は、放射線が北に飛びやすいということを知っていたのだ。

私は夢の通り、南へ逃げて正解だったわけです。


ネットで、いわき市では『市全域に外出自粛』などの内容の広報車が回っていることを知った。

...遅いし...『逃がさず外出自粛』って...

いわき市は『ゴーストタウンになった』と噂されていたけれど、実際は他県に逃げることができず、いわき市内に残っていた人達もいた。

福島県のテレビで、原発の情報を流していたかどうかは謎ですが...爆発の1週間以降に...私が福島県の我が家に荷物を取りに行った時には、まだ行方不明者の読み上げだけをしていた。

...信じられなかった...

『関東のテレビとは大違い』だったのだ。

肝心の福島県で原発に関すること、被曝予防法など流されていない様子でした。だからか、いわき市にいる人達は、いつも通りの無防備な格好をしていた。

ちなみに後で知ったことだが、いわき市方面には、沢山のヨウ素が降った。


実家では原発や放射線に詳しい近所の人が、関東のテレビで被曝予防法が流れる前、爆発直後に、予防の仕方を教えにきてくれていたので、皆その通り守って生活していた。

窓の隙間もつくらぬようにして、雨戸もカーテンも閉めっぱなし状態で1週間ほど閉じこもってた。その1週間は本当に生きた心地がしなかった。

次の日には死んでるかもしれない...次々と死ぬのかとか考えてしまったり。私は殆どピアノを弾いたり、スマホをいじってた。

その後の外出時は帽子にマスク、ホコリが落ちやすい服を着て、室内に入る時には...必ずホコリと同じようにはらって入っていた。

雨の日は、放射線を含む雨かもしれないので外出禁止。

水がなかなか使えるようにならないので、御風呂とトイレが大変でした。トイレは父が作ってくれた物を使ってたけど流せない。

御風呂も入れませんでしたが、幸い温泉地が近くにありますので、他の人達よりは早めに源泉掛け流しの温泉(室内)に入れて救われた。

避難所生活をしてないので物資も届かない。食事も大変でした。ラップをした御皿に食べ物をのせて食べたりしていました。

母方祖母は「戦争の時でも、こんなに酷くなかった」と言っていた。


私は03月12日(土曜日)、福島県を出て茨城県の実家へ避難した時、このように予想していた。

『原発が本当に危険ならば、政府は絶対に隠す、マスコミも信用はできない。

福島、福島県民...もっと危険なら...茨城、茨城県民をも見捨て、場合によっては隔離され、モルモットだ。

空き巣や盗難が増え、治安が悪くなり、刑務所にいる罪人達をも逃がす。逃がしても県外には行けないからだ。

そんな状況の中、住み続けなければいけなくなるかもしれない。そこまでされるかもしれない。』

それが本当に...そこまで...その通りになった現実には驚いた。

...絶望...

政府もマスコミも信じなくて、正解だったのだ。

気が付けば福島県は『三重苦が四重苦、五重苦』と増えていた。


当時、いわき市長は、いわき市HPで市民にメッセージを送っていた。

「戻ってきて下さい」

その後に消されましたが、04月には仕事も学校も通常通りに再開されるとのことで、いわき市民は、嫌でも戻らなければいけない状況にされた。

私も戻って一度は出勤したけれど、職場では被曝予防など気にもせず、換気扇を回したままの状態(汗)どんな状況におかれているのか、全く理解していない様子だった。避難区域が広がった時こそ、移住をしようと決めていた。

...案の定...

すぐに避難区域が広がった。私は迷わず仕事を辞めた。主人にも移住するために、仕事を辞めるように言った。

05月下旬まで移住の為のリサーチや準備で、埼玉県と福島県を何度も往復した。ちなみに移住先も、私が過去に見ていた夢により決めた。

自主避難ですし、支援も最初から期待していなかったので、自分達の貯金を使った。

罹災証明書など必要書類だけは受け取り...他は普通の引越しと同じ。面倒で大変だったが06月上旬に、埼玉県への移住が完了した。


他、親戚から聞いた『物凄い真実』も御伝えしたいところだが、やめておく。いつか実際に自分で体験した親戚自身が、何だかのかたちで暴露してくれることを期待する。


『...先の先を読む想像力...自分の勘...判断力...行動力...』

この4つは、生きる上で最も重要なモノだと、思い知らされました。


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